アナログ生活から考えるテクノロジー

9月。

去年の今頃の風景がふと蘇ってきました。スウェーデンで生活を始めてから約1カ月経った頃ですね。


当時のブログからは微塵も辛い部分が感じられませんが、今思えばあの時の惨めさといい、切なさといい…日本にいた頃には感じ得なかった感情を抱えきれないほど心に湛えていた時期でした。



今は母国日本でこれまでのように暮らしています。

帰国してから2カ月。

すっかり日本の社会で自分を取り戻してきた、そんなタイミングで当時の惨めさを振り返ってみると、ふと当時の生活の特徴を思いつきました。





それは「アナログへの回帰」。


突然ですが、東京は究極的に便利です。

そんな特殊な場所で育った私にとってスウェーデンでの日常生活でのあらゆる断片が思考と体力の要るイベントと化していました。



ここでは便宜的に、移動という観点に絞って話してみようと思います。

当時基本的に移動手段は自転車か徒歩でした。鉄道はない。

バスを使うという手もあるけど、ダイヤや路線的にも融通が利く交通手段ではありませんでした。



今でも覚えています。

留学初期の頃、ある約束がありその人のもとへ向かったときのこと。

目的地の近くにはバスが走っていなかったので自転車を使うしかなかったのですが、その日は激しい土砂降りでした。

でも今日のアポイントで行かなくては。

なので私は申し訳程度にしかならないであろうレインコートを羽織り、暴風雨の中自転車で向かいました。


しかし案の定、途中の舗装されていない道路の水溜りで自転車がスリップして派手に転び、右手と右脚のすねをパックりと割りました。

レインコートははだけて中の服が木の枝と葉っぱにまみれ、自転車はブレーキが壊れ、右半身は傷だらけ。

そんな自分の姿を見て情けなくなりました。

数キロ先に移動するということは、こんな苦労を伴うことなのかと思いました。



また日々の買い物もそうでした。

日本のようにコンビニがあるわけではないから、少しでもお腹が空いたら最寄りのスーパーまで毎度食料を買い出しに行く必要があるのです。

最寄りのスーパーは家から1-1.5キロ離れたところにありました。

最初は自転車を使っていたのですが、沢山食料を下げて運転すると転ぶということを覚えてある時から徒歩に切り替えました。

冬。

靴下を重ねて履き、その上からレギンスを履いて、その上からズボン。セーターを重ね着して防水コートを羽織り、帽子と手袋をはめてやっとそとに出ます。

そんなに着込んでいるもんだから身体が重くて仕方がないのですが、雪の中でも前に進まなくてはいけない。

膝くらいまで積もっている雪に一歩一歩、ズボ、ズボっと自分の脚を挿し、ゆっくりと前に進んでいく。

1.5キロ先のスーパーはまるで天竺のように感じました。

日本では軽々とお財布一つ持って家を出ればどこかしらにコンビニでもスーパーでもあったので買い物はむしろ楽しいもの。

そんな便利さを知っていたから、雪をかき分けて下を向いて私は一体何にエネルギーと時間を割いているのだろうかと何度も分からなくなりました。

スーパーへの道のりで私は、周りに人がいるわけでもない白い世界にただ一人で何度もポツンと佇んだ。




こんな風に書くと悲しいことばかりのようにも感じられますが、こんな経験を通じて知らず知らずのうちに学んでいったことがあります。

それは「移動すること」の本質。

東京ではなかなか感じ得ないことです。



具体的には

「移動する目的」

とか、

「移動のために今自分が使っている手段の仕組み」

とか、

「移動している方向」

とか。



東京は地上も地下もインフラが整っています。

特に地下の鉄道網は複雑なテクノロジーの極み。

ホームに向かえばすぐに電車がくる。細やかな網のような地下鉄ワールドを自由自在に移動できる。乗り換えの場所がわからなくても、ダイヤに完璧に対応したアプリを見れば勝手に乗り換え案内を提示してくれますね。

しかもしっかりした空間として空調が整えられており年中快適。商業施設や宿泊施設も伴い、最早単なる移動空間ではない。

このように複雑に綿密にテクノロジーが駆使された世界は便利です。



ですが、その便利さ故に自分の行動の真の目的について考える機会がなくっていたことに気がついたのです。



人は食べ物・温かさを求めるとき、それがある場所に移動しようとする(と私はスウェーデンで思った)。

しかしそこにたどり着くのは簡単なことではないんです、本当は。

徒歩や自転車では到底自分のエネルギーのみではたどり着かない距離にあるかもしれないし、危険なものが途中にあるかもしれない。

加えて、自分が今いる場所とそれがある場所の関係性を完璧にわかっていないと辿り着かない。



だからなのです。

なるべく安全で快適に効率良く目的地までたどり着けるような仕組みを考えるのは。

安全さ、快適さ、効率性への欲求を原動力に次から次へとシステムや機能を追加していって構築されてきたものが、実はテクノロジーに支えられた複雑なシステムの基本原理であり、正体だった。


テクノロジーとアナログは切り離されたものでもなく、アナログの延長線上のものなんですね。


冷静に考えるとこんなことは当然です。

でも私はこうした「テクノロジーの成り立ちと存在理由」に極めて無自覚に生きていました。

その気がつきがあったのも、

徒歩で寒さに耐え凌ぎながら自分の土地勘に頼って買い物に行く、というアナログな生活で感じた寂しさおかげです。




とこんな偉そうなことを言いながら、東京で二ヶ月過ごした今はすっかりその便利さに慣れてほとんど思考停止状態生きています。

なんで移動しているかなんて考えていません。

すぐに移動できることが当然だから、むしろその便利さに合わせて用事が増えていっているような気もします。もはや因果関係が逆です。笑

たくさん人間が住む社会ではこれが最も合理的なので、必然的な結果なのかもしれませんが。




こうした生活が良いのか悪いのかは私にはわかりません。

ただ私にできることは、そこにあるテクノロジーをどう解釈し、自分はどう生かすのかを自分なりに考えることくらいです。




こんな話題になったのは、今朝去年の今頃の寂しさを思い出したからでした。

その寂しさと目の前に広がる東京の風景を同時に見つめていたら、「アナログへの回帰とテクノロジー」というテーマがふと思い浮かんだわけです。


そんなことを考えながら、地下鉄に乗って次の用事に向かいます。

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