スウェーデン暮らし


突然ですが、私はこれまでの20年間、日本での生き方を当然のこととして受け止めて生きてきました。

そりゃあ日本の中だけで暮らしていたんだから、それもそのはずなのですが。


そんな中で私は、去年から暫くスウェーデンという日本とは別の国に暮らすという経験をしました。

そして、そこでの暮らしは日本のそれとは少し違っていた。

決して派手ではないのですが、
一瞬一瞬にもう少し重みがあると言ったら良いでしょうか。



今日は1年を振り返りつつ、そのスウェーデンの「重みのある暮らし」について書いてみようと思います。

さて、その「重みがある」というのはある一定の時間の中で沢山の予定を詰めるという意味ではなく、
言ってみれば無駄に色々考えたり感じたりする時間があるという意味です。

なぜこのような表現をしたかというと、ゆっくりと考えたり感じたりするときに感じる感情や見る風景って、比較的に濃く長く心に残るなぁと思ったから。

そして、気になった方も多いと思いますが「無駄に」と書きました。

ですが、ここでは無駄という言葉にネガティブなニュアンスはあまり込めていません。


それは最近、無駄なことの結果が必ずしも無駄だけではないと気が付いてきたからです。




この1年の私の生活には多くの無駄があり、余分に色々感じたり考えたりしてました。
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まず、私はどこかへ移動するときに急がずに歩いてみたりしました。

そうしたら、あるとき
地面の木漏れ日がびっくりするほど綺麗なことに気がついた。

アートのようななかなか見応えのある模様なんです。

この木はなんぞやと思って上を見ると、
日本で馴染みのある木より葉っぱが小さかったりしました。

へぇ〜こんな木もあるんだと思いました。
日本にはなかったんです。

そしてその奥に見える空の色は、
見上げる季節や時間によって全然違いました。

冬の空は殆ど一日中黒です。
でも、黒の中にも度合いがあって、
紺と青の間ようなレベルからブラックホールみたいな吸い込まれそうなレベルまで見るときによって違うのです。

一方夏の空には驚くほど沢山の色がありました。
特に短時間で色彩が変化する夏の夜の色は本当に美しかった。
まだらに浮かぶサーモンピンクの混じった透き通った、いつまでも続く水色の夕方。
しかもよく目を凝らすと、水色の下には見たこともないような微妙な黄色とグリーンのグラデーションに彩られている。
そしてその夕方の空は徐々に奥行きを深め、ターコイズブルーに変化していくのです。



どこか特別なところに行かなくても自然ってこんなに綺麗だったんだ、と初めて思った。 



これも急がずに歩くという無駄のなかで起きたことですが、

地下鉄などで小さい子どもが前をゆっくり歩いていても、サッサと進みたいと思わなくなりました。

むしろ気付いたらその進む姿を終始凝視していて、保護者みたいな気分になっていた。笑

ご年配の方にも道を空けたり、椅子を譲るということが義務というよりやりたいものになりました。

自分でも何故だかわかりません。
無駄に急がず歩いていたら、いつしか自然にそういう気概になった。笑

あるとき席を譲った際に、必要以上にお礼を言ってくれたおじいさんはとっても可愛らしくてあの表情はなかなか忘れられないです。

あ、あと立っていても別に疲れない自分は案外体力があるし、若かったことに気が付いたこともなんだか嬉しい。



私が急ぐことよりも一生懸命歩いている人たちが歩き切れる方が大事だな、と初めて思いました。




他にこんな無駄も作り出しました。
用事と用事の間に時間ができてしまったとき、特に何もせずにそこら辺に座る/辺りをフラつくこと。

どっかで用事を作ることも本当はできなくはないのですが。

でもそこに座ると、そばを行き交う人は一体全体何のためにどこに向かってここを歩いているんだろうかと気になってくる。

ただ陽を浴びに来ている人もいれば、テラスに座ってパソコンで何やら打ち込んでいる人もいました。

パソコンを持ってyoutubeでも見ているのかとふと画面を見たら緻密にグラフィックデザインをしていて、そのときはハッと驚いたなぁ。

あとは、へぇ〜スウェーデン人って同性で遊ぶことが意外と多いんだな、とか、黒い服装が好きなんだな、なーんて小さなことを観察したり。



街は、自分だけでなく沢山の人の人生が交錯している場所なんだということを初めてちゃんと実感した。



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こんなふうに、スウェーデンではなんともゆったりした時間を持って、とりとめもないことを感じたり考える機会が多かった。


でもどうしたわけか
そういう時に見た一瞬の風景、そこから感じたこと、考えたことって
妙にくっきりと記憶に残ることが多い。

そしてそのときの風景や記憶が、重みとなってその時間をを型どっていく気がします。


 
思えば私は日本にいたとき、ずっと急いでいました。

電車の乗り換え時間を最短にするために駅では大抵走っていたし、間ができる予定の立て方なんて絶対にしたくなかった。
何らかの理由でいざ合間ができたなら、時間を捨てているようで不安になっていました。


でもよく考えたら、何故急いでいるのかという根本的なことを私は考えたことがなかった。

もちろん時間に間に合わせることも時間を効率的に使うことは大事だと思います。

でも時間を効率良く使うということと、「理由もなくとりあえず急ぐをゴールとすること」は本質的に違うんだった…

と、やっと意識しました。

特定のこと(仕事でも勉強でも何でも)に対して全力になることには慣れているけれど、

何故それをやってその他のことをやらないのか、
そして何故それに熱中するのか、
そんなことをちゃんとは考えたことがなかった。


でもこちらにきて、それについて考えてみる余裕ができたのです。


その余裕は、まさに今日話した「重い」時間からきていました。

あることに熱中していない時間を使ってボヤボヤと関係のない(一見無駄な)事を考えていると、もっと全体的な視点でものを見るようになる。

自然のこと、
私以外の周りの人がどうしているかのこと、
社会のこと、

そんなことをボヤボヤ〜と考えていると、自分が相対的に小さな生き物になってくる。

そうすると、
果てしなく世の中が色々である中で何故私は他でもなく今の環境を選んでいるんだろう?

というハテナにいつしか辿りついてしまうということなんだと思います。

勿論、常に意識してこんなことを考えていたわけではないけれど、きっとその「無駄に」感じたり考えたりする間に働いている無意識が積み重なってたまに何かを思いつくのかもしらません。



色々と書いていますが、
人生には余裕や精神的豊かさが必要だ!と主張しているわけでは決してないです。

余裕であることは考えを換気する為の手段に過ぎないと思うので、余裕そうに暮らすことがカッコいいとかそういう話しじゃないです。

人の生き方は本当にそれぞれで良いと思うので。

それにそもそも、理想の生き方や暮らし方があったとしてもそれを実現させることほど難しいことはないと思うので。


私はただ単に、
案外「無駄」に見える時間はまわりにまわって無駄でない発想になって戻ってきたりするかも

ということが言いたかっただけ。



ところで、
スウェーデンは政治参加の高い国です。

勿論政治教育や国によるPRなどの影響が大きいといえばそりゃそうなのですが、

でも、この「無駄に」色々感じたり考えたりすることが多いことも、もしかしたら政治への関心の高さに関係していたりして?
なんてことも思いました。




今日の空の色は昨日と少し違います。
薄い雲がかかっているせいかも。
手前に生えている松の木が影となって浮き立っていて、絵画みたいで素敵です。



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